Website Weblog Twitter

 しばらく前からのご来訪者はご存じのことだろうが、先月下旬より事務所を鄙に移転している。 移転と云うのは格好の附け過ぎで、引退、フェードアウトの第2フェーズに至ったいうのが、より正しい表現であろう。 だから、自由に使える時間(何ものにも制約されない時間)が増えている。事務所への通勤が無くなっただけでも大きい。 相当量の雑多乱読本も積み上げたし、DVDも用意した。

 それなのに、弥生三月の声を聞いたら桜を待つ季節なのだと、何やら心騒ぐ、いや春の賑わい、芽吹き、命の唄などというものを感じ陶然とするのである。 去年(こぞ)の今頃は何をしてたのだろうかと、WebLogの佳いところで、アーカイブを覗いてみたら、昨年の今頃は長門から石見の旅をしていた。 この春は何処の桜を探してみようか、どんな桜に逢えるだろうかと、気が弾む今日この頃。
 《 願わくば 花の下にて 春死なん その望月の 如月の頃 》(西行)




 標題の《Website Weblog Twitter》に戻ろう。 いささか旧聞になるが西の論客堀田勝己氏が自らのサイトに「No.67 そんなに、つぶやきたいですか?」という記事を掲載していた。

 最近、巷では Twitter なるものが流行っているらしい。
 言ってみれば個人的な「つぶやき」を全世界に公開し、誰かからの反応を待つものだと思うのだが、どうしてそんなものが流行っているのか、私には理解できない。
 そもそも私は、ブログすら拒否し続けている。
 「なぜブログをやらないのですか? ブログにしてくれたら、コメントを書き込めるのに」といったご意見を頂くこともあるのだが、私はどうも、その時々の感情にまかせて書き散らかすということが、許し難いのだ。


 堀田氏がブログ嫌いを広言しているのは以前から承知している。そんな彼の信条からすれば、つぶやきなどとても許せないのだろう。 時の総理がブログに乗り、つぶやきに乗る軽佻浮薄ブリは認めがたいのであろう。 それでも"その時々の感情にまかせて書き散らかす"と言われては反論せざるを得ない。 何せ堀田氏の影響力は大きいから、「Website=正統派、論理的。  Weblog=感情的、書き散らかし。 Twitter=無責任、時に病的依存症」などと思われたら堪らないのである。

 これから先の記述は、堀田氏が間違えているとか知らないであろうという意味ではない。だから誤解しないでほしい。 堀田氏が『鄙からの発信』を感情的書き散らかしだと、日頃から見ているとも思っていない。 もちろん、評価されているなどと自惚れてもいない。 日頃ネット上に溢れている「ブログやつぶやき」を捉えて述べているのだということはよく判っている。 

 ところが、Website Weblog Twitter は、それぞれが別物ではなく、同じもの、少なくとも同梱いいえ同根なのである。その昔のPC通信を黎明期と考えれば、Website→ Weblog→ Twitter はソフト的には一つの進化系、あるいは派生系と云えるのであろう。 非公開ツィートを集積してウエブログを生成し、その構成体としてウエブサイトを世に問う、そんな作業方法だってあるのです。

 ことは、Weblogはけしからん、Twitterは書き散らしということではなかろうと考える。 《書き散らかしというか、ネットの怖さも凄さも判っていない輩が多いのは事実だし、我が業界にも少なからず棲息している。 H氏がその辺りを捉えて述べていると云うことも理解しているつもりである。》
 新宿や心斎橋の交差点に立っていれば、様々な騒音が耳に入ってくる。 五月蠅い案内放送、呼び込み、 キャッチセールス、つぶやき独り言、ネットの世界はまさにその様相なのである。 

 愚かな視野狭窄&偏執狂達の書き散らし&プロパガンダ、ガセネタ&誇張された噂話、それだけなら兎も角、フィッシング詐欺、スパムメール、悪質ポルノ等々、自分の子ども達にPCをあてがった時代が十数年以前でよかったと安堵するのである。 今なら、小中学生にネット接続PCを渡すには躊躇するだろう。 だから携帯電話(その実態は携帯PC)を児童に与える是非が常々話題になることが、よく理解できるのである。 《このエントリーを推敲していて気付いたのだが、ヒョッとしたらH氏は氏のご子息達がこの罠に嵌ることを、秘かに危惧しているのではなかろうか?》

 ところで、茫猿が「Website Weblog Twitter」と並べたのには意味がある。 ホームページという表現が蔓延しWebsiteと混同されている。 HPはWebsiteのTOPページを指すのであり目次とかホームポジションを指すものである。(キーボードの右手なかほど上方にHOMEというキーが存在するが、似たようなものであるし、サイトを見れば各ページに"HOME"というボタンアイコンが用意されているものも多い。)

  Websiteは幾つかの章の総体というよりは、様々なコンテンツ・カテゴリーの総体を指すのである。 WeblogはそれらコンテンツのLog(記録)を云うのであり、転じて日記的利用となりBlogと称された。 そのBlogが進化してWebsiteに近似するようになったのが、当節と茫猿は考えている。 当節のBlog作成ソフトは下手なウエブサイトよりは上手くまとめられるようになっている。 

 紙媒体でいえば、夕刊紙、日刊紙、フリーペーパー、週刊誌、月刊誌、文庫本、新書本、ハードカバーなどの存在と類似すると言えないだろうかと考える。 私家版もあれば自費出版もあれば壁新聞やチラシもある。 だから、好きな作家は文庫本でなくハードカバーで購入し愛蔵するという読者が存在するのでもあろう。 週刊誌をファイルしている購読者だっているだろう。

 問題の本質はメデイアの形態ではなく、言い古されたことだがコンテンツなのだといえないだろうか。 書き散らす方も責められるだろうが、無批判無自覚に2チャンネル的悪意の潜む噂話を増幅する騒々しい受け手の方にも責めは大きいのだと考えている。
 
 茫猿が自覚し自戒していることに、キーボードを叩き、シミュレーションモデルを駆使して作成した評価書を、直ちに発行すると意外な落とし穴に墜ちると云うことである。 少なくとも一夜二夜は寝かして、その間に他の原稿を作ってから、プリントした原稿を赤鉛筆を持って校正・推敲するようにしている。 ペンを持って一字々々書くと云うことと、キーボードを叩き単語登録・文節変換を駆使すると云うことの差が垂れ流しをさせるのであり、文書作成が容易になったことが垂れ流しの元凶だと考えている。

 グレシャムの法則が働くのか、淘汰の原則が働くかは、読み手次第といえないだろうか。 良い読み手の存在が、良い書き手を育てるのだとも考えている。 読者は読み上手にならなければいけないと考えるし、良い書き手を育てるのは読者の責任と云ってもよいと考えている。

【蛇足・追記】
 Twitterは原稿を寝かせたり推敲したりという行為には向かない、H氏の云うとおりである。 それだから、140字なのだが、推敲書き直しができないというものでもない。 ナントカトと道具は使い手次第という、これも言い古された言葉だ。 コメントやトラックバックも同様で、使い手次第だと考えている。 これも古い言葉だが「ネチケット」を教えるのも書き手の義務だと考えている。
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by bouen | 2010-03-05 04:52 | 只管打座の日々


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