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ニサッタ、ニサッタ

 "ニサッタ"とは、アイヌ語で「明日」という意味である。だから「ニサッタ、ニサッタ」とは「あした、あした」あるいは「あしたから、あしたから」という意味であろうか。乃南アサ久しぶりのハードカバーである。

 さしたる目的もなく進学し、さしたる見極めもなく就職し、簡単に辞め、職を変わる毎に職場レベルを落としていった若者が、健康保険も持たないその日暮らしのなかで病気をすればどうなるか。 職を失い1DKの住まいを失った彼がようやくに辿り着いた先で出会った人たちとの軋轢、そして「ニサッタ、ニサッタ」を予感させる終章、「女刑事・音道貴子」の世界とは全く別の乃南ワールドを堪能した。




ニサッタ、ニサッタ」乃南アサ著 講談社刊
本の帯に書いてある惹句によれば、
《明日から。明日から、がんばろう。
失敗を許さない現代社会でいったん失った「明日」をもう一度取り返すまでの物語
普通のサラリーマンだった耕平は、会社の倒産をきっかけに、じわりじわりと落ちていく。まだ戻れる、まだ間に合うと思いながら。

気がつけば、今日を生きるので精一杯。
最初の会社を勢いで辞め、2番目の会社が突然倒産し、派遣先をたて続けにしくじったときでも、住む場所さえなくすことになるなんて、思ってもみなかった。ネットカフェで夜を過ごすいま、日雇いの賃金では、敷金・礼金の30万円が、どうしても貯められない。
取り返しのつかないことなんてない、と教わってきたけれど。でも――。》

 フィクションだからルポルタージュとは違うのであるが、でも幾つかの報道やiNet情報からすればさほどには実態と違わないと思われる最近の若者たちの就職状況を背景にする物語である。
 バブル崩壊後に目立って増えた若者世代の路上生活者、路上生活とまではゆかなくともネットカフェ暮らしなどその日暮らしがなぜ増えているのか不思議だった。いいえ、ある程度は判っていたつもりであるが、確信がなかったのである。でもこの小説を読んでほぼ確信に変わったのである。折しも今週の週刊金曜日で「卒業イコール失業者、就活もう限界です!」という特集を掲載していた。

 若者世代に失業者が増えているのは、企業が正社員採用者数を減少させ業況に応じて増減可能な派遣や請負や季節労働者、期間労働者を増やしていることが大もとの原因であることは間違いないことであろう。でも、それだけであろうかと思われるのである。

 集団就職(中学生・金の卵)列車が廃止されたのは確か1970年代だったと記憶する。その後しばらくして、高校全入時代と云われたとも記憶する。そして今や専門学校を含めて大学全入時代である。大学の定員割れがニュースになる時代でもある。

 15、18、22のそれぞれの春に社会に巣立ち就職した時代がかつてあり、18、22の春に巣立つ時代を経て、今や20あるいは22の春に一斉に巣立ち就職する時代と変化している。 そのあいだに農林漁業など一次産業が衰退し、ガテン系と称される職業訓練や徒弟制度を経て技能を身につける業態が衰退した。それは大工、左官、庭師など、かつて周囲に多く見られた職人業界が衰退しただけでなく、企業においても職能・熟練工といわれる世界がコンピュータマシンに置き換えられて衰微していったのである。

 別の表現をすれば、15から22までの数年間、企業においても"親方(工)"と呼ばれる熟練技能者に付いて職業訓練を受け技能を磨いてゆくという、社会にビルトインされていた技能者を育てる組織や制度が崩壊してしまったのである。 かつての建築現場で大工さんの一日は鉋を研ぐことから始まったものである。 一日の始めと終わりは道具、まさに手に馴染んだ道具を調えることが仕事であったが、今や彼らの道具箱(それすらも見かけなくなった)の中には、電動鉋、電動鋸、電動ドリルしか見られなくなっている。 長い期間の修行など経なくとも、誰でも木肌を美しく整えられる時代なのであり手仕事など遺物となってしまった。

 職業に貴賤などありはしないが、人には向き不向きがある。大工の修行を経て棟梁として独立してゆく世界もあれば、企業に就職し熟練技能者に成長してゆく世界もあれば、コンクリートジャングルで激烈な競争に互してゆく世界もある。 それぞれ向き不向きがあり、好き嫌いがあるはずであろうに、皆一様にリクルートスーツに身を固めて企業戦士を目指していい訳もないであろう。

 今や大学三年の夏休みに始まる就活は、インターネットで百を超える企業にエントリーシートを送ることから始まるという。それが全国一斉に始まり、我も我も都会の企業を目指し中小企業や地場企業には見向きもしないのである。なかには業態など無視してとにかく東京の上場企業を目指そうとする若者も少なくないと云う。

 社会が変化した。現場が変わったというか、かつて何処にも存在した人間味溢れる現場が消えてしまい、特段の技能を求められない単純労働のみが求められる世界とデジタルテクノロジーのみが要求される世界とに二分されてしまった。 そこにはリベラルアーツなどという優雅なものは一瞥だにされなくなってしまっている。

 もちろん、ことはそう単純ではない。 アキバ系などと呼称される新しい職能や新しい技能世界も出現しているし、グローバルコンペティションの出現もある。そしてその変化転移の速さもある。国内に存在した多様な職業世界が、随分と前に韓国に移転したのを皮切りに中国へヴェトナムへミャンマーへと加速度的に移転しているのであるし、その上国内では少子高齢化を加速させている。

 そんな乾いた現代世相を背景にしながら、「ニサッタ、ニサッタ」の世界があることに主人公がいつしか気づいてゆくことを乃南アサは綴ってゆくのである。忘れていたものを想い出させる話と云ってもよいだろう。 この書で「アメラジアン」という言葉を知った、普天間基地で揺れる沖縄に固有な表現である。アメラジアンというマイノリテイによせる乃南アサの優しい目線も嬉しい読後感である。

強い者は生き残れない」吉村仁著 新潮選書
 素数セミの仮説を提唱した著者が、進化は環境に適応した強いものが生き残るのではなく、環境の変化に対して共生を為し得た生物が生き残ったと解き明かす。著者はまた人間の社会についても言及し、富の有限性を説くのである。 文明の爛熟は利己的強者を生み出し、やがて崩壊への道を辿ってゆく。40億年の地球の生物進化史が教える「長期的利益」のために「短期的利益」の追求を控え、協同行動をとるべきと云う。生物進化論から政治・経済論に言及するのは少しばかり牽強付会の感もあるが、ホモサピエンス以外の生き物に学ぼうという考えは頷けるところ有り。

葬式は要らない」島田裕巳著 幻冬舎新書
 書評不要。 葬式の由来、必要性、あるべき姿など、宗教学者が葬式について判りやすく教えてくれる。 縁者の葬儀に悩む人や、自らの葬儀をいかにありたいか考える人は読んでおきたい入門書である。

 仏教本来の姿はケジメ式以外の葬儀無用論であり、社葬に代表される現代日本の葬儀有り様は華美である以上に、遺された者が死者を利用して行う自己満足と見栄と自己顕示の姿以外の何物でもない。 それは(導師をつとめる)寺院と葬祭業者を利するだけである。
by bouen | 2010-04-08 04:32 | 只管打座の日々


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