鑑定士である前に市民

 こういう遣り方は禁じ手であろうと思います。それでも敢えて過去記事を再掲します。1999.03.06(雨の土曜日、事務所に出てきてEmailの返事など書きながら、この雨は啓蟄なのだと思いながら、私も穴から出ようかなどと考えて書いた記事です。)



 ふとしたきっかけら検索して読み返してみたのだが、少しも古くなっていない。格差という溝の広さと深さがさらに大きくなっているという今、読み返すと新しいくらいである。証券化問題などで鑑定士の鼎の軽重が問われている時に、「鑑定士は鑑定士である前に市民で在らねばならない」などという文章はたった今書いたみたいである。
 自画自賛をしているわけではない。7年の歳月を経ても何も変わっていないということなのである。書いた頃の気持ちを忘れていた茫猿はますます茫々さが進んだと云うことであろう。とても情け無いことなのである。

 皆様は、久野収、略称クノシュウをご存じですか。ご存じでしょうね。99年2月9日に88歳でお亡くなりになりました。クノシュウを知らなくても60年安保の鶴見俊輔はご存じでしょう。ベ平連の小田実もご存じでしょう。 武谷三男や都留重人或いは丸山真男と共に生き、人生の出発点が滝川事件であった「負けることの意味を考え続けた哲学者」「民衆に浸透する哲学を探究した市民哲学者」です。 そして鶴見俊輔や小田実や筑紫哲也や中山千夏や落合恵子に大きな影響を与えた方です。氏の全集の編集者はかの有名な佐高信氏です。

 久野氏の信条や箴言は幾つか有りますが。
「来る日来る日を今日限りとして生き尽くせ」「神は細部に宿る」「少しでも理想に向かうことが我々の勝利であり、どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。それが人間の勝利であり、それ以外の勝利を考えるようになると組織や運動はもちろん人間の堕落が始まる。」
 特に、尽忠報国一色の戦時中の高等学校講師時代に徴兵にとられた教え子に「どんなことがあっても生きて還ってこい。戦争の後にこそ我々の仕事が始まる」と、壮行の言葉を贈られた方です。

 閑話休題、鑑定士はエスタブリッシュメントである。異論があろうかと思いますが、国家試験によって選抜され、鑑定評価により報酬を得ることを法により認められ、公的評価の評価員として多額の報酬が約束されている以上、体制派であり、既成秩序維持派であることは否定のしようもないことです。であるからこそ、鑑定士は鑑定士である前に市民で在らねばならないと思います。

 久野収氏によれば「市民とは、簡単にいえば、“職業”を通じて生計をたてている“人間”」という定義に帰結すると言われます。鑑定士が鑑定士である為には、根底に市民としての自我が確立されてなければと思います。
 藤澤周平の、市井の片隅に生きる者への暖かい眼にも、通じる考え方と思います。

 またまた閑話休題、内橋克人著・同時代への発言・全8巻刊行済み3巻、「日本改革論の虚実」、「消尽の世紀の涯に」、「実の技術・虚の技術」お読みになりましたか。一読をお奨めします。どなたかが、本は自分で探すもの、人に薦められるものではないと言われました。その通りですが、店頭で目次か斜め読み位はされても宜しかろうと思います。 TVで拝見する限り内橋氏はシャイな人柄で、ベストセラーの多い経済評論家K.H氏などの対極にいる方と拝見します。
[PR]
by bouen | 2006-07-24 20:41 | 只管打座の日々


<< 郡上踊りの季節 ”祝” 鑑定NWデモサイトの公開 >>