Project Gから屈原まで

 宋 文洲という方がいます。宋氏が日経-NBonlineに「思い込みを捨てれば楽に生きられる」と題して、屈原に題材を取り「いじめと自殺」に関してこんな記事を書いています。



(中略)自分が知る環境や常識にとらわれて頑張ることは、かえって自分の首をしめてしまうのです。もっと大きな視点で、考えてみるべきです。

 端午の節句の起源である屈原は、偉大な詩人です。彼は清廉な官僚になり、民衆の支持を集めました。しかし、汚れた当時の官僚社会に絶望し、川に身を投げて自殺しました。

 この話には言い伝えがあります。悲痛の表情で川辺に立っていた彼に、1人の漁夫が小船に乗って近づき、「あなたはなぜ悲しいか」と聞きました。屈原は「こんな汚れた世の中で生きる気力が無くなった」と告げました。すると漁夫はこう言って去りました。「ここの川の水がきれいな時もあれば汚い時もあります。きれいな時はその水で顔を洗い、汚い時はその水で足を洗えばいいのでは」

 この言葉を聴いて、なぜ屈原が落胆した気持ちを楽にすることができなかったか、僕も不思議に思います。彼の死を惜しんで人々は彼の命日の5月5日にご飯の塊を葉っぱで包み、川に投げました。それは、見つかっていない彼の遺体を魚が食べてしまわないようにするためで、これがちまきの由来となりました。

 僕の推測ですが、屈原に語りかけた仙人のような漁夫はいなかったと思います。屈原の死を悔やみ、この悲劇から死を思いとどまってほしいと願う人が作った話だと思います。紀元前200年代の人々も、現代の我々と同様に痛ましい自殺を通じて運命を受け入れ、運命と上手につき合うべきだと考えたのだと思います。

 集団の中でうまくいく時は集団の楽しさを楽しみ、うまくいかない時は家族の温もりを楽しむ。仕事が乗っている時は仕事を楽しみ、失意の時は余暇を楽しむ。水が変われば洗う体の部分を変える。いろいろな生き方がある中、そんな環境に抗わない柔軟な生き方も悪くないと思いませんか。
(後略、引用終わり)

 屈原であれば、漁夫の話を聞けば汨羅(べきら)の淵に身を投じることを思いとどまったかもしれません。宋文洲だからこそ、屈原の「漁父の辞」を我が身の糧にできたのだろうと思う。と、言ってしまえば実も蓋もない話になる。
 でも実はその通りなので、屈原の話や宋文洲のサクセスストーリーを知る術(スベ)もなく「いじめ」に耐えていたり、自殺に追い込まれたりする子ども達が多いのだと思う。子どもだけでなく、年間三万人に達する大人の自殺者についても同じことが云えるのだろう。

 年間の交通事故死者は一万人を数えたが減りつつある。自殺者数は依然として三万人を数える。しかもその6割が50代以上であるという。世に云う、団塊前後であり、逃げ切った豊かな世代とも云われている世代である。
 団塊の世代は様々に話題になっている。彼等は豊かな世代であり、ハッピーリタイアメントを実現する世代だと云われ続けている。
でも本当のところは、多額の退職金や年金を手にリタイアする公務員や上場企業勤務者は少数派なのであり、リストラに遭遇したり零細企業に勤めていたり斜陽産業に従事する団塊世代の方が実数としては多いという説がある。

 悠々自適を夢見ていたはずの幸せな人だって、パラサイトシングルや引き籠もりに悩まされているかもしれない。多分、この説は正しいだろうと思う。世に云う平均値は統計の魔術が産み出したものであり、実態は統計値の背後に隠されているのだ。
例えば、貯蓄残高一億円の金持ちが一人と残高10万円の貧乏な人が百人いたとすれば、平均貯蓄残高は百九万円という実態としては何処にも存在しない値となる。自然現象では近似することが多い平均値と最頻値であるが、社会現象では必ずしも一致するものとはならない。と云うよりも一致しない方が多いと考えるべきであろう。社会現象に正規分布などあり得ないと云うべきだろう。

 何が云いたいのかといえば、どんなに素晴らしい話も当事者に届かなければ無意味だということである。屈原の話も宋文洲の話もヤンキー先生の話も夜回り先生の話も、今、悩んだり苦しんでいる人に届かなければ無意味である。

 どうしたら、こういう話が届けられるのだろうか、自殺を考える子ども達や中年のオジサン達にこういった話を伝えられるのだろうか。そうでなくとも他者の話に耳を傾ける余裕などないだろうし、TVコメンテーターの無意味なほほえみやけたたましい呼びかけに耳を貸すとも思えない。やたら叱り飛ばす細木オバサンならば茫猿だって願い下げだ。

 つまりは悩める子ども達やオジサン達に繋がるか細い糸のこちら側にいる多くの人達の自覚というか理解というか、柔軟なモノの見方というか、そういったものが問われているのであろう。
だからこそ、Project G → Project N なのであろうと考える。

 それからもう一つ、小学生や中高生の自殺は大人社会の風潮と無縁ではなかろう。自らを含め身の回りの命をいとおしく(愛おしく)思わない大人達の風潮が知らず知らずのうちに彼等に影響していると思う。子どもの自殺と中高年の自殺は無縁なのではなく、水面下でつながっていると思われる。

 ところで、繋がる糸のこちら側も危ういのだ。いつ何時糸の向こう側に往くともしれないのだ、糸を切ってしまうことだってあるだろう。だから幾つかの複数の糸を張り巡らし、安否を確かめる日々がとてもとても大切なのだろうと思う。
 と云うのが、「也有」、「右眼」、「天野忠」、「Project G」と巡って「屈原」にたどり着いた茫猿の述懐である。

 リストラ、セクハラ、パワハラ、一人っ子、鍵っ子、孤立する核家族、父子家庭、母子家庭、ニート、フリーター、派遣、偽装請負、蒸発、ホームレス、コンビニ賞味期限切れ弁当、徘徊、都会の孤独、過疎地の憮寂、企業社会も地域社会も崩壊し限りなく孤に近づいてゆく「砂の民」

 『見ている』、『見守っている』、『気に懸けている』、『気遣っている』
そんな信号を絶えず発していよう、
信号を発する人が減ってしまった今こそ、発し方も忘れた今こそ、
発する信号の幾つかは、必ず届くと自信をもって。

 どんなことだって心に浮かべなければ、思いにならない。
 どんな思いだって、言葉にしなければ伝えようがない。
 どんな言葉だって発しなければ伝わらない。

・・・・・・いつもの蛇足です・・・・・・
 ところで、統計とか報道というモノに示される数値をむやみやたらと信じるのは疑問なのである。例えば子どもの自殺者数である。いじめ自殺について文部科学省統計では最近数年間は皆無であったという。ところがこの一、二ヶ月の児童自殺は驚くほど多い。急増したのであろうか、それともジャーナリズムが取り上げたせいなのだろうか。以前ならば地方版の隅に小さく記事となったモノが全国紙一面記事となってはいないのだろうか。

 ことの性質は異なるが事件と報道という意味からは、例の必須科目未履修問題も似たようなところがある。地方版記事を全国紙が取り上げて大問題となったが、斯界(学校現場&教育委員会)では数年前から周知の事柄だったという。さらにこれだけ問題となっているのにも関わらず、未だに隠そうという学校も少なくないようである。(それが証拠に匿名情報による調査がまだ続いている。)

 いじめは常に発生しているし、自殺もゼロ件ではないというのが実態なのではなかろうか。大人や社会がそれに目配りをしていたか、目をそらしていたかということなのであろう。

『宋 文洲(そう・ぶんしゅう)』(日経-NBonlineより)
 現 ソフトブレーン マネージメント・アドバイザー
1963年6月中国山東省生まれ。84年中国・東北大学を卒業後、日本に国費留学する。90年北海道大学大学院工学研究科を修了。天安門事件で帰国を断念し、日本で就職したが、勤務先が倒産。92年ソフト販売会社のソフトブレーンを創業し、代表取締役社長に就任、99年2月代表取締役会長に。2000年12月に東証マザーズ上場、2005年6月に東証1部上場を果たす。2006年1月代表権を返上し取締役会長に、同年9月1日、「もう1人の社長」「陰の実力者にならない」として、取締役会長を辞任し、マネージメント・アドバイザーに就任する。
[PR]
by bouen | 2006-11-19 01:33 | 只管打座の日々


<< 労働基準法32条改悪 Project Gから千夜千冊へ >>