蜜柑と芍薬と桜実

 そうそう書くこともないし、吠え続けるのも草臥れる、読む方だって辛かろうと思える。そんなときには花便りへと逃げ込む。 『05/21追記』



初夏に似合うみかん(蜜柑)の花である。この花は夏みかんでやや大ぶりの花である。花の近くでは香りが濃いし、密を求める虫がぶんぶんと飛び回っている。


 続いて立てばしゃくやく(芍薬)なのである。今年は4月の末に咲いて5月の初めには散ってしまった牡丹に20日以上も遅れて、やっと咲き始めた。

写真の奥にもう散ってしまった牡丹の木が見える。左手奥にちらほら見えるのは黄菖蒲である。4/26の牡丹の花はこちらである。

 桜の実といっても佐藤錦とかナポレオンという類ではない。山桜の実である。 桜には二種類あり、一般的なソメイヨシノは交配雑種F1だから実をつけない。花のあとに実をならせるのは山桜・里桜系である。赤い桜の実は渋くて食えないが、黒と見紛うほどの濃赤紫色に熟した実は少し渋みが残るがほのかに甘く素朴で懐かしい味がする。一個の実の大きさは小指の爪くらいである。
 
1950年代に、この季節は庭の隅や畑に子供のお八つになる果実が多くあった。桑の実、木イチゴ、グミ、梅の実などである。梅は青梅は子供にはあまり好ましくないが黄色く熟した梅は柔らかく甘いので十分お八つになるのである。桑の実を夢中になって摘みながら食べていると、ポケットの中も口の中も赤紫色に染まったものである。
 茫猿が過ごした鄙にコンビニも駄菓子屋もなかったし、仮にあったとしても小遣い銭を持っていなかったが、鄙の自然が用意してくれる子供の食べ物は豊かだったと想い出すのである。今や桑もグミも木イチゴも廻りに無くなっている。だからそれらを探す楽しさも味も知らずに、今の子ども達は育ってゆくのである。サトウキビをシガムことなどなかろうが、あれは歯や顎の強化には役立ったであろうと思い出す。

 ところで、先日横浜逍遙亭さんの「ブログ記事・やめられない、とまらない」について、『ほんにそのとおり、「書きすぎを軽蔑しつつ、自分の心の中を覗きながら忘れられるのが恐い」とは言い得て妙である。』と茫猿の賛意をコメントしたら、逍遙亭さんからお礼のコメントを頂いた。

 そこで茫猿敬白して、次のようにコメントした。
『横浜逍遙亭・中山氏はかく云われるが、茫猿は三日と空けずに『鄙からの発信』を覗いて頂く、何処の何方かは知れないリピーター氏の存在に応えようと書き続けるのである。書き続けるうちに些かの強迫観念をすら憶えるようにもなっているのが少し怖くもある。 でも思わぬ処で思わぬ方から「読んでます」と云われる歓びもまたカケガエノナイものである。』
 
 すると再度、逍遙亭さんからのコメントで曰く。
『御意。茫猿さんのお言葉にはまったくもって異論はございません。私の場合、そこがブログ最大の楽しみであると同時に苦しさの原点ですが。』と頂いた。

 即ち、こういうことなのである。書きすぎは避けたいと思いながら忘れられるのを恐れて書き続けている。リピーターの存在はとても嬉しいことなのだが、いつか存在そのものが書き続けることを促すような強迫観念がでてくる。ブログを書き続けることの楽しみと苦しみという裏腹の関係はここにあり、書き手を苦しめるのである。「アルファブロガー」の記事でも幾人かが述べているし、「Blogの絆」や「ブログの絆-2」でも述べたことであるが、ブログを書き続けることの意味、それも自分自身にとっての意味を、折々に再確認することが書き続ける力になるのだろうと思えるこの頃である。でなければ、虚空に吠え続けるなどとてもじゃないが遣り切れないことである。

 それにしても、桜の実についてはほぼ一年前に殆ど同じことを書いている。同じ事柄を同じように書いているけれどそれでいいのだ。同じように月日が巡ったというだけで素晴らしいし、その巡り来た訪れに一年を経てまた遭遇できたというのも素晴らしいことなのだと思える。
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by bouen | 2007-05-19 16:30 | 只管打座の日々


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