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この秋初物

 週刊ブックレビューで紹介していた、石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」を買い求めようと岐阜市郊外の中規模書店に出向いたが在庫無し、そこで適当に見繕って数冊買い求めた。ついでにスーパーへ立ち寄り、この秋の初物を得る。



 この秋の初物である。眼が澄んで嘴の黄色さも美しい生秋刀魚が、一匹300円と安くなった。刺身も佳いが、やはり網焼きである。庭のU字溝:簡易焜炉に枯れ枝を集めて置き火を作ってサンマを焼く。写真を見れば判るが、サンマを焼くときに一番難しいのはサンマを返すことである。片面が焼き上がったサンマを菜箸でスルッとひっくり返せるようになれば、サンマ焼きも一人前である。茫猿は面倒だから金網を二枚使用して網ごとサンマを返すのである。こうすれば身が崩れず美しく焦げ目も美しく焼き上がる。

 サンマは強火の遠火に身を焦がされ、我が身からシタタリ落ちる油が時折炎を高く上げるなか、煙を上げつつほどよく油が抜けてホクホクに焼き上がる。この枯枝網焼秋刀魚にたっぷりの大根オロシをかけ、ようやくに果汁をため始めた庭のスダチを搾りて、初秋を薫り高く満喫するのである。こんな時に何かと不自由や不都合が多い田舎暮らしだからこその、楽しさや有難さを堪能するのである。さらに特筆すべきなのは、今年の初物に掛け回した醤油は先日いただいた「たかし君」印なのである。サンマを肴に隆志君に感謝して杯を挙げる。

 サンマを食しながらふと考えた。様々な理由からもう数年も開いていないサンマパーティーだが、この晩秋あたり最後の宴も悪くないなと。


 ところで、買い求めた書籍とは次の数冊なのである。「信長と消えた家臣たち(谷口克宏)」、「昭和とは何だったのか(保坂正康)」、「昭和天皇ご自身による天皇論(半籐一利)」、「嬉しうて、そして(城山三郎)」、「この国のすがたと歴史(網野善彦、森浩一)」である。一見して何の脈絡も無いようにみえるが、そんなことはない。

この国のすがたと歴史(網野善彦、森浩一)」
 森考古学と網野史観が織りなす縄文文化にはじまる日本史の再認識なのである。
信長と消えた家臣たち(谷口克宏)」
 伝えられている織豊政権のすがたは、江戸幕府治世下で徳川に都合良く語られてきた織田信長であり、豊臣秀吉なのである。その信長とその家臣団の実相に迫る。
昭和天皇ご自身による天皇論(半籐一利)」
 満州事変、シナ事変から英米戦争に至る過程で、天皇が大元帥となり神格化されてゆく経緯を追う。
昭和とは何だったのか(保坂正康)」
 戦後62年を振り返って、戦争をいかに語り継ぐかを考える。加害者が忘れる史実は被害者が語り継ぐものである。
嬉しうて、そして(城山三郎)」
 そして、城山三郎氏の絶筆を含む最後の随筆集である。あとがきで編者の井上紀子(城山氏の娘)氏はこのように結ぶ。
「書くこと」だけにこだわり、無所属で走り続けた父。その父の残した宿題、それは「当たり前のことが当たり前にできる世であり続けること」。つまり、自分で考え、自分で判断し、自分で選択できる世の中であること。選択肢があるが故の「悩める」ことの幸せ。言論・表現の自由があってこその平和。その為に、人間としての品格をもった、成熟した大人になること。心は少年少女でも、人間は「大人」でなければならない。知らず知らずのうちに恐ろしい世の中になってしまわないように。

 日本史の背景に、日本というものの水面下に流れ続けているもの、縄文、中世、織豊、昭和そして平成以後に流れ続け、語り継ぐべきものを探すにふさわしい一連の読書と思うのであるが、読後感はいずれまたのこととする。
by bouen | 2007-08-20 09:55 | 只管打座の日々


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