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親父の雑巾

 昔、長男が「親父の背中」という一文を投稿してくれたことがある。当時(99.03)、54歳にしてWebサイトを開設した父親へのハナ向け(餞)のつもりだったのであろう。その一文は今もサイトに掲載してある。さて、先月の初めに次男が住む瀬戸内の豊島に出かけた。そのいきさつは瀬戸内フォト紀行に書いたとおりであるが、まだ書けていないことがある。それは「親父の雑巾」についてである。



 瀬戸内フォト紀行では、10/05早朝に岐阜羽島を出て岡山経由で昼頃に豊島に渡り、その日の夕刻に豊島から高速船で高松に向かいその日は高松泊まり。10/06は高松から祖谷渓、大歩危小歩危を観光して瀬戸大橋マリンライナーに乗車して岡山に向かうまでしか書いていない。10/06の夕方から10/08にかけての行程はまだ何も記していないのである。その後フォーラム騒ぎにかまけていたせいでもあるが、この瀬戸内フォト紀行後半を記すには少しばかり時間を必要としたのも否定できないのである。

『瀬戸内フォト紀行の前半』
瀬戸内・豊島の秋 [2007-10-12 10:51]
気ままな出会い旅 [2007-10-13 10:52]
高松彷徨 [2007-10-14 10:54 ]
祖谷の手乗り山雀 [2007-10-14 10:55]
大歩危小歩危中歩危 [2007-10-20 11:16 ]
琴電・四万十・南風 [2007-10-20 11:36 ]

 なぜ書けなかったかの理由を子細に云うのは難しい。一番大きな理由は「親爺の背中」をウリセンにするような嫌らしさを茫猿自身が感じたことである。この嫌らしさは今でも感じている。茫猿だけでなく、このエントリーを鼻持ちならないと読まれる方も多いだろうと予感する。
 もう一つはこのサイトは家族も読んでいる。そのことは「Blogの絆」に書いたとおりである。だから、遠くに離れて暮らす家族、とくに次男がどのように受け止めてくれるか自信がないことにある。でも記憶が確かな内に書き留めておこうと思うのである。いつかは「明日の記憶」になるだろうから、今、書き留めておくことはやはり意味あることと考えるのである。明日の記憶はいつか「昨日の記憶」となることでもある。

 10/06の夕方、大歩危峡から高松市内に戻り、讃岐饂飩とおでんで夕食を済ませた我々は少し用があるからという次男を高松駅に残して、瀬戸大橋マリンライナーの乗客となって岡山に向かいました。翌日は寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)の婿・博(前田吟)の故郷(正しくは博の父親(志村喬)の故郷)である備中高梁に向かうつもりでした。備中高梁でロケ跡地などを巡った後は、新見経由で寅さん最終章「寅次郎紅の花」で「さくらの息子」つまり甥の満男君(吉岡秀隆)が、恋人(後藤久美子)の花嫁道中を無茶苦茶にしてしまう津山に向かうもよしと考えていたのです。
『描いていたのはこんな旅程です』
JR伯備線・特急やくも3号乗車 8:50 岡山駅発  9:26 備中高梁駅着
※高梁でロケ地観光と昼食
JR伯備線・特急やくも11号乗車 13:28 備中高梁駅発  13:58 新見駅着
JR姫新線乗車 13:31 新見駅発  15:13 津山駅着
※旅程次第では高梁から倉敷に戻り、大原美術館も佳しと考えてました。

 翌日の旅程を考えて倉敷駅前に宿を求めた私たちは、駅前通の居酒屋で「ママカリまるごと酢漬やサワラのお刺身」などで晩酌兼夕食を頂きながら、「次男の住まいの汚れようは尋常じゃないから、近いうちに一週間か十日間それなりの準備をして掃除のために豊島に行ってくれないか。」などと話していました。彼の住まいを訪ねるのは今回が初めてではありません、ちょうど一年くらい前にも訪ねています。その時は慌ただしい日帰りだったのと、いつまで続くか判らない仮住まいという思いが先に立ち、内部までは詳しく見ていませんでした。島に住み始めて一年半が過ぎて、どうやら本格的にファーマー見習いに専念しそうだと、彼の腰を据えた覚悟らしきものが見えてきた今回は、家内共々住まいを細かに見たのです。

 彼の住まいは築三十年程度の3DK一戸建てをお借りしています。内一部屋は以前からの家具や什器を保管する納戸になっており、使える部屋は2DKですが一人暮らしには十分な広さです。しかし、なにぶんにも古いのと、空き家期間が長いのと、多分色々な方が使っていたせいでしょう、汚れがひどく整理整頓もできていません。それでも居間と寝室に使う部屋はカーテンや畳上敷きを替えベッドをおいたので、一応は人の住まいになっています。
 でも、便所(汲み取り型)、風呂、台所はいけません。便器も浴槽もガス台や流しも長年の汚れがしっかりとコビリツイテいて少しくらいの拭き掃除では落ちる様子もありません。それでも、家内がじっくりと少しずつ掃除をすれば何とかなるだろうと考えていたのです。

 その夜というか明け方に近かったと思います。次男の行く末や今の住まいをあれやこれやと考えていた私は隣に寝る家内を起こして、こう言ったのです。「今日の備中高梁行きは中止、島へ渡り二日間で大掃除をする。男手による思い切った掃除や整理が必要だと思う。」
 驚く家内を尻目に次男には島に戻るからと連絡し、朝一番に玉野市内のホームセンターへ向い、デッキブラシ、亀の子タワシ、雑巾・洗剤などの掃除用具、整理用の組立棚などの雑貨を買い求め、これも買い求めた折り畳みキャリーに積んで島に戻ったのでした。

 大掃除の詳しいことなどつまらないから省きますが、汚れが目立つ台所の床を素足で歩けるようにと、何度も雑巾がけをしていた時です。「よくもマァー、こんなところで一年半も辛抱したな。」と思ったら、不覚にも涙をこぼしそうになりました。床の雑巾がけも便器の拭き掃除も、茫猿のそんな姿を見るのは家内も次男も初めてのことだから、終始無言というか口数少なくこちらの指示に従って家具を運び出したり入れたり、滅多にない家族の協働作業でした。

 ところで、掃除というものは不思議なもので、最初は恐る恐る汚れに向き合っているのですが、少し綺麗になってきたり掃除に慣れてくると素手で拭き掃除をするのに抵抗が無くなってきます。掃除の持つ魔力と云ったら大袈裟でしょうが、汚れた場所が美しくなると気持ちも清々しくなってくるのは嬉しいことです。 翌日も昼過ぎまで掃除、整頓、庭木の刈り込みなどとよく働きましたが、お陰でそれから数日は身体の節々が痛くて階段の上り下りにも不自由したことです。
 
 見るに見かねて手を付けた掃除とは云いながら、すでに社会人である次男には気の毒なことをしました。有無を云わさず島に戻って始めた掃除ですから、彼は何とも言い様が無いわけで、しかも仕事や予定がありますから親に終始付き合っている訳にもゆかず、「何ともはや・・・・・」というような二日間だったと思います。 後日、こんな述懐をブログに記していました。
 この三連休プラス一日は両親が来島していた。嬉しさ・楽しさ・恥ずかしさ・情けなさ・申し訳なさ・・・様々な気持ちが交錯する四日間。両親が島を離れる際、船が見えなくなるまで見届けたのだが、感謝の気持ちと共に切なさがこみ上げてくる時であった。


『手帳の日付』
 11月も半ば近くなると、書店には手帳のコーナーが設けられる。先日買い求めた08年手帳に今年の手帳から幾つかを転記していたなかで、家族親族に係わる日付に新しく弟の命日が増えた。

 咋11/10、百ヵ日を機会に、この夏に慮外の死を遂げた弟の遺骨を東本願寺大谷祖廟に納めて参りました。彼の六十年余の人生全てが不遇だったとは思いませんが、晩年は恵まれない日々でした。
 新幹線の車中も、祖廟に向かうタクシーの中でも彼の遺骨を膝に抱いて、「私は兄としてすべきこと、しなければいけないことが、できていただろうか」と自問自答をしていました。うわべの優しさなどでなく、真の善は厳しさも伴うことではなかったかと、何を云っても今さらのことですが、今も考え続けています。
by bouen | 2007-11-11 22:52 | Who’s 茫猿


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