高須、尾張、会津

 茫猿が住まいするのは岐阜県の南西部に位置する安八郡の南端である。その我が町・輪之内町の南隣が旧海津郡平田町(現海津市平田町)で、さらにその南、岐阜県の南端に位置するのが旧海津町(現海津市海津町)である。



 旧平田町はその町名を宝暦治水の功労者である薩摩藩家老平田靱負にちなんで町村合併のおりに町名とされたものである。宝暦治水の時に築堤された油島千本松締切堤は海津町の南端に治水神社と共に今も残っている。

 この岐阜県南端に位置し、濃尾平野を貫流し伊勢湾にそそぐ木曽川、長良川、揖斐川という三川が合流する地帯に位置するのが海津市であるが、海津市の市役所は旧海津町高須に位置する。この高須に所在し幕末に一瞬の光芒を放ったのが徳川尾張藩の支藩である「松平高須藩」である。そこには今も美濃高須城趾(実際には城ではなくて屋敷跡)が残っている。

 美濃高須藩は徳川尾張藩二代藩主徳川光友の次男義行を始祖とするのであるが、その第10代藩主・松平義建には子が多く、数多くの藩主を輩出した。(縁戚他藩に養子に出したと云うことである。) 義建の次男は尾張藩第14代藩主・徳川慶勝となり、三男は石見浜田藩主・松平武成となり、五男は高須藩第11代藩主・義比となった後に、尾張藩第15代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。七男が会津藩主・松平容保で、九男が桑名藩主・松平定敬と共に幕末に活躍した藩主となった。十男・義勇は高須藩第13代藩主である。


【高須藩菩提寺行基寺に所蔵される「高須四兄弟」次男:尾張藩主徳川慶勝、五男:高須藩主一橋茂榮、 七男:会津藩主松平容保、九男:桑名藩主松平定敬の写真である。】

 幕末維新史に名をとどめる京都守護職/会津藩主:松平容保は美濃高須の出身なのである。また会津と共に戊辰戦争を戦って朝敵会桑といわれた京都所司代/桑名藩主松平定敬も高須の出身である。この義建の七男、九男の兄、次男慶勝は徳川尾張藩14代藩主なのである。
 会津藩については、先頃のエントリー「落花は枝に還らずとも:会津藩士・秋月悌次郎」で紹介したとおりである。ところがつい先日に書店で文庫本漁りをしていたら、「冬の派閥:城山三郎著」を見付けたのである。

 実は、城山三郎氏の絶筆であり亡き夫人を偲ぶ「そうか、もう君はいないのか」と「落日燃ゆ」を探していて、「冬の派閥」に出会ったのである。本の裏表紙の惹句によれば、「幕末尾張藩の勤王・佐幕の対立が生み出した血の粛清劇〈青松葉事件〉をとおし、転換期における指導者のありかたを問う歴史長編。尾張藩の運命と不可分の、藩主慶勝の「熟察」を旨とする生き方と、いとこ一橋慶喜の変わり身の早い生き方を対比させつつ、転換期における指導者のあり方を問う雄大な歴史小説。」とある。

 この惹句に惹かれたのである。中村彰彦著「落花は枝に還らずとも」でも、実直に尊皇を旨としながら心ならずも朝敵となる会津藩の苦渋が描かれていたし、対照的な十五代将軍徳川慶喜の身の処しようも描かれていた。だから優柔不断な藩主及び尾張藩としか知らなかった松平容保の兄:徳川慶勝の生き方に興味惹かれたのである。

 読後感を一言で云えば、「殿様は気楽なものだ。」ということになるだろうか。城山三郎氏は尾張名古屋の旧家の出である。だからか、なにがしか尾張藩に同情的な筆遣いになるのはやむを得ないとしても、江戸と京都の中間に位置する六十数万石の大藩なのである。為しようによっては明治維新の帰趨を握ることもできただろうに、為す術なく時流に流されてゆくのである。あまりにも人がいない、あまりにも因循姑息、時勢の赴くところが見えずに十四人の藩士を粛清してしまうのである。さらに維新後に多数の旧藩士を北海道開拓に送り出す苦難も味あわせてしまうのである。

 もちろんのこと、今日的視点で尾張藩や藩主慶勝を批判してはいけないのであろう。藩主とはいえ養子の身であり、大藩を意のままに動かすことは容易ではないだろうし、将軍吉宗と対立した挙げ句に隠居幽閉された第七代藩主徳川宗春の先例もあることから、藩の大勢が事勿れ主義に陥っていたとしてもやむを得ないことであろう。だとしても変革期における指導者というものの在り様が、「熟察」にあるにしても「果断」にあるにしても、とても難しいことなのだと思えてくるのである。それにしても、今はひっそりとした田舎町である隣町・海津町が維新史に係わる「高須四兄弟」出生の地であり、会津若松との縁(えにし)があり、宝暦治水:お手伝普請を通じて薩摩との縁もある。
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by bouen | 2008-03-05 12:10 | 只管打座の日々


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