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岐阜県立大垣北高等学校

 以前にも茫猿の出身高校について記事でふれたことがあるが、茫猿は岐阜県立大垣北高等学校の新制第13回卒業生(1962年3月)である。卒業後半世紀の記念すべき年を来年に控え今年は同窓会総会の主管幹事を務めている。といって特に何かをするわけでなく、大部分は後輩の23回卒業生や33回卒業生が務めていてくれる。我々は例年より多くの総会出席者を集めただけであるし、それも13回生幹事長など同期の役員諸氏が努力してくれた。今日はその同窓会開催日であった。

 その懇親会の席上で、母校の現況などが話題になったから、その日の午前中に撮影した母校の写真をサイトにアップしておきましょうと約束をしたのである。このサイトに大垣北高卒業生の何人がアクセスしているか判らないが、少なくとも懇親会で約束をした数名のために、そして茫猿自身の備忘のための本記事である。




 岐阜県立大垣北高校校舎正面近影。(2010.08.01撮影)


 同じく、校舎とメモリアルホールなど。


 中庭は整えられて、オブジェなども並べてある。


 実は、我々13回生は、北高が大垣市藤江町の旧木造校舎から、現校地に移転した第一回の卒業生なのである。今は大垣市中川町地内の住宅地に美しく整えられた校地であるが、49年前は見渡す限り田圃のなかに無愛想なRC三階建て校舎が建っていただけである。

 講堂も体育館もなく、全校集会はグランドに尻を落として行われた記憶がある。 同期の者に教えられて、改めて卒業アルバムを確認したら、全校生が地面に腰を下ろして校長先生の講話を聞いている写真に付けられたキャプションは「大講堂にて」である。正しくは「(青空)大講堂」なのである。体育の授業の多くは石ころ拾いと草刈りに動員されていたようにも記憶する。

 同じく創部三年目にインターハイ出場を果たしたサッカー部の同期に言わせると、当時の北高サッカー部は悪天候の試合にめっぽう強かったそうである。なにせ、日頃、泥田のような石ころ混じりのグランドで練習しているから、整ったグランドで練習しているチームと雨天や雨上がりのグランドで試合をすれば、最初からアドバンテージを貰っているようなものだったそうである。

 今は整備されたグランドで、秋季大会に向けて野球部の練習試合が行われていた。


 校地正門脇には、移転当時の見覚えのある齋藤校長先生のレリーフが刻まれた移転記念碑が建てられていた。


 同窓会総会にて、在校生合唱部が校歌を歌ってくれました。


 番外です。同期生が経営する大垣市中町の茶房紫野之芽(しののめ)の中庭には、パン屑などを与える餌台がある。そこへは鳩や雀が食事にやってくる。 店主に目白や鶯は来ないのと聞きましたら、そんな高級な鳥はこの町中では無理といわれました。

by bouen | 2010-08-01 11:56 | 只管打座の日々


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