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先生と呼ばれるほどの・・・・

 最近はあまり聞かれない戯れ言に「先生と呼ばれるほどの○○でなし」というのがある。
茫猿は不動産鑑定士という(士)サムライ稼業である。徒手空拳で男(信用・信頼)を売っていると云って大して違いはなかろう。このサムライ稼業の職種について世間ではよく「・・・センセイ」と呼んでいただける。中国での本来の意味は年長者の尊称なのであろうが、日本では学校の教師を尊称して、または教職そのものの尊称的代名詞として「先生・センセイ」と呼称する。それが何時か様々な場面で「センセイ」、「せんせい」と使われるようになったのである。



 このような利用の根源は何処にあろうかと考えてみたら、多分これで間違いないだろうという発生源が見つかった。
それは花柳街、繁華街、呑み屋さん街なのである。一般的に呑み屋さんではお客の本名は呼ばない。森島さんとは云わないのが普通であり、モーさんとか、モリチャンとか、シマさんなどと呼ぶのが普通である。ところが、馴染み客と同道してきた一見さんの呼称に困るのである。コチラサンとかアチラさんとばかりに呼んでいられないし、やたら名を尋ねる訳にもゆかない。

 そんな時に便利なのが「社長さん」である。しかし世のなか企業経営者ばかりではないから、それ以外の呼び方も必要なのである。例えばゼネコン役員さんが接待する議員様をどう呼んだらよかろうかと考えた挙げ句、「センセイ」なのである。森昌子流に云えば「それはセンセイなのである」。
これは便利だった、上はソンカイ(村会)から下はコッカイ(国会)までセンセイと呼んでおけば通用した。医者、弁護士、税理士・会計士、kanteishiも、企業経営者以外は皆センセイで通用した。

 ここまでは佳かろう。非日常的夜の世界の話であり、目クジラ立てることもない。だけどこの適当且つ便利な呼称をそれぞれの職業世界で互いを呼ぶのに真っ昼間から使うようになったのである。学校の教師の世界で、医者の同業世界で、ご多分に漏れず鑑定士の同業世界でも「センセイ呼ばわり」が氾濫している。

 岐阜の同業で篠田氏という見識の高い先輩が居られた。このことに関して、もう三十年も前に篠田大兄がある席上でこのように提案されたのである。
『お互いにセンセイと呼び合うのは止めませんか。我々は鑑定士として誇りを持っている。その誇りとか見識に対してお客様からセンセイと呼んで頂けるのは有り難いし嬉しいことである。しかし、我々が仲間内でセンセイと呼び合うのはあまり見場の良いものではない。
 我々が互いにセンセイと呼んでいるのを、鑑定業界外部の人に聞かれたら、それは大層聞き苦しいものだと思う。だから日頃から互いをセンセイと呼び合うのは止めましょう。』  大意はこのようだったと記憶する。

 その場に居合わせた、川瀬さん、板津さん、内木さん、小川さんといった先輩方(当時、茫猿は駆け出しの30前、彼等は50代~60代)は皆さん賛成された。「それは好いことだ」、茫猿曰く「でも、私のような若輩が皆様方をサン呼ばわりは出来ません。」、篠田氏曰く「かまわないよ、君も鑑定士僕も鑑定士、気詰まりというなら、僕たちは君をクン付けで呼ぼう。」

 その後、岐阜県の鑑定業界では長らく「センセイ」という呼称は禁句でした。互いに「サン付け」、時に「クン付け」で呼び合うのが普通であり、それは麗しい美風であると思っています。同時に「センセイ」、「せんせい」と馴れ合わないことにもつながっていると考えています。

 ところが残念なことに、近年は「センセイ」が増えてきました。会議や分科会などの公式の場所をはじめ呑み屋さんでも互いに「センセイ」と呼び合う会員が増えてきたのです。とてもお寒い光景ですし、聞き苦しい言葉です。
 何よりも腰低く「センセイ」と呼んでおけば無難だろうというような、慇懃無礼・事大主義的な心根が覗き見えるのがとても残念です。篠田氏をはじめ、川瀬、板津、内木、田辺、古田氏など諸先輩が草葉の陰でさぞかしお嘆きであろうと思えば、互いをセンセイと呼び合う愚かしさを茫猿は語り伝えてゆかなければと思い直すのです。

 好意的に解釈すれば、クライアント様から「センセイ」と呼んで頂けないから、その代償行為として互いに「センセイ」と呼び合って、互いの傷口を舐め会い労り合うという、これはこれで麗しい、だけれどとても寒い光景なのでしょう。よく似ている話に、この頃聴かれない敬称「師匠」がある。本来は師匠と呼んだ方が格式も敬意も品もあるのに「センセイ」を連発する人々が増えてきた。落語家、歌手など芸能の世界のことである。

 「センセイ」と呼ぶか、呼ばないか、などということは些事です。どちらでも佳いことですし、野暮なことは言いたくないのです。しかし、自らにケジメを付けるとか、馴れ合わないとか、緊張感を持つという意味では、安直に「センセイ」と呼び合わない、互いの敬称一つにも【矜持】を高くすることは結構重要なことに思えるのですが如何でしょうか。 その意味では野暮を言おうと思うのです。

「それはそうと国会でもケンチャン、カトチャンが流行っている。」

 ところで、格式あると云うか、見識を誇ると云うか、そういった類のお座敷では「センセイ」などとは呼ばないのである。「オニイサン」なのである。
by bouen | 2006-08-01 04:34 | 茫猿の吠える日々


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