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急ぎすぎる社会

 「Link Club Newsletter」06.09号のにとても良い記事が掲載されているので紹介する。全文はWebに公開されているのでアクセスして読んで下さい。それはバルセロナのサグラダ・ファミリアで日本人彫刻家として活躍中の外尾悦郎さんが語る言葉である。外尾さんが語る言葉は「鄙からの発信」が大事にし、目指しているものとシンクロするのである。



 以下は、「Link Club Newsletter」06.09号よりの引用です。(Topページのサイトマップより、Link Club Newsletterにアクセスして下さい。)

 世界中の建築家や芸術家に多大な影響を与えた不世出の建築家アントニオ・ガウディ。彼がライフワークとして取り組んだバルセロナのサグラダ・ファミリア贖罪教会は、着工から百余年を過ぎた今日でも悠々と工事が続けられている。比類のない斬新な建築のアイディア、深い宗教心に貫かれた様式、彫刻を駆使した装飾は特に名高い。
「完成するまでにあと数十年かかる」と言われているこの教会の工事に、ガウディの遺志を継ぐ日本人彫刻家が参加している。それが外尾悦郎さんだ。そんな外尾さんの眼に、現在の日本はどのように映っているのだろうか。

「言いたいことはたくさんあるが、今は子供関連の事件に最も心を痛めています。みっともない事件、人間として不幸な事件が多すぎる。レベルが低い、しかし根が深い」

 この原因のひとつとして、外尾さんが指摘するのが「急ぐ社会」だ。
「急ぐことは、罪なのです。村社会が都市化してきた結果、人々は“急ぐ”生活を強いられるようになった。“急ぐ”とは競争、つまり、戦いです。その挙句、人が無関心になる。道端で倒れている人がいても、声をかけない。これは証拠の残らない戦争です。今も多くの国が戦場下にある中、“無関心”という最悪の戦争が私たちの社会で起きているのです。

 今、私たちに求められているのは、正直に、一瞬を大切に生きるということ。それは、魂の疑問を持つことであり、環境を含めた生きる自分を見つめることにほかならない。一瞬一瞬を正直に生きると、道端に倒れている人に気づくことができるのです」  【引用終了】

 似たような記事を最近読んだ記憶がある。今の東京の怖さは深夜の歌舞伎町でも大久保でもなくて、真昼の銀座で路上に横たわる人を見ようともしないで行き過ぎてゆく一見して善男善女風の人々にあるのだそうである。「どうなさいました?」という一声を掛けることさえ惜しむ人々の群れであり、関わり合いを拒む無機質な人々の群れなのである。すでに人々というジャンルに区分することさえ憚られる生き物の群れなのだそうである。

 急ぐ社会の対極に存在するのがサグラダ・ファミリア教会なのであり、サグラダ・ファミリアが完成するかいつ完成するかなどということは商業ベースにおける基準や思考でしかない。本当の完成は自然のなかだけにあるという。

 急ぐと云うこと、競争すると云うこと、ひたすら効率を追い求め、ひたすら高みを目指してゆくこと、目指す高みとは何であろうか。金銭的物質的蓄積の高さや量をもってのみ高みという到達点を計ろうとする。
 企業も企業に属する個人も企業と取引する企業も個人も、只ひたすら効率を追い求め、その結果として派遣社員や請負社員を生み出し労災隠しが蔓延する。派遣と請負と労災隠しが発覚する企業こそが、つい先日まで日経新聞で持て囃されてきた超優良企業体なのである。

 何も小泉政治の五年間のみを批判しているのではない。小泉以前、バブル以前、ひょっとしたら我々は戦後六十年、ひたすら営々と商業化に向かって邁進してきたのであろう。人の活動の全てを時には愛までも貨幣換算することにより、得か損か、効率か非効率かという座標軸のみで人生を考えることに慣れきってしまったのではなかろうか。それら全ての反映が今なのであろう。

 ・・・・・・いつもの蛇足である。・・・・・

 不動産についても、その経済価値だけを見てきたツケが今問われているのであろうと考える。
 不動産なかんずく土地は人間の生活と活動に欠くことのできない一般的な基盤である。土地と人間の関係はこの不動産のあり方にあらわれる。個人の幸福も、社会の成長、発展及び福祉も、この不動産のあり方がどのようであるかに依存しているといえる。『櫛田光男・基本的考察より』

 この不動産のあり方は不動産の価額を主要な指標として方向付けられている訳であるが、我々は価額以外の指標というもの、あるいは経済価値以外の座標軸というものについて、あまりにも無関心に過ぎたのではなかろうか。
by bouen | 2006-08-24 06:23 | 茫猿の吠える日々


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