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情理道理法理合理

情理道理法理合理
 「女は子どもを生む機械」などという暴言を発したのは柳澤厚生労働大臣だけど、「残業代零制度・ホワイトカラーエグゼンプション(厚生労働省提唱)」といい、この発言といい戦前より酷い発言である。当時も「生めよ増やせよ」とは言ったが、同時に「軍国の母」という悲しい称号を捧げるという情味(?)も存在したのである。(言っとかないと、トンデモナイ突っ込みが来るから断っとくが、シニカルなアイロニーだよ。)



 柳澤厚生労働大臣は失言と訂正したそうだが、実は彼は「マクドナルド化社会」という機能化社会を日頃より夢見ているのではなかろうか、東大&大蔵省出身のエリートとしては能力に応じた格差が社会に存在することは合理的であると考えている節がみえるから、あのような発言が口の端に昇るのであろう。

経済学習資料「マクドナルド化社会」(ホンマノオト)より
マクドナルド化は、簡単に言うならば、人間の技能を機械(人間に寄らない技術体系)に置き換えることで、いかに合理化するかというものである。
(中略)
しかしながら、マック職に要求される技能は、高い水準の技能と教育を要求するはるかに望ましいポスト産業的な職業を手に入れることや、そうした職場で働くために役立つとはとても言えない。そもそも職業というものが思考力や創造性を要するとすれば、ルーティン化された(決められた)言動やマニュアル化された相互作用での経験は何の役にも立たないであろう。


「華氏451度」さん より
 ゴメンですまないのは、その発言が本人のトンデモナイ価値観や感性に由来している場合。厚労相の発言は、まさしくそれにあたる。女性は生む機械・装置であるの、男性は種馬であるのといった発言は、その人間の深層にそういう意識がない限り決して出てこない。(ちなみに我らが都知事も、その種の失言の多いヒトである)


「女性は「産む機械、装置」喜八ログさんより」
女性を「産む機械、装置」と見なしてしまうような人物は、すべての人間を「働く機械、装置」と見なして恥じないだろう。あるいは「殺す機械、装置=兵士」と考えるかもしれない。言うまでもなく「機械、装置」は減価償却され使命を終えたら「産業廃棄物」として処理される存在です。
人間を機械や装置と見なして使い捨てにして構わない、という思想の持ち主。これが一国の厚生労働大臣となっているとしたら「正気の沙汰」ではありません。


「女性は子どもを産む機械発言」瀬戸智子の枕草子より
柳沢さんは何をしまったと思ったのだろうか?
女性に対して失礼なことを言ったからと本人は言い訳しているが、
私個人は「ツッコミがバンバンきて批難されるぞぉ、しまった」とか或いは「本音がバレタ。しまった」の方が尤もらしいと思います。
鏡の国のアリスと言う本の中でハンプティ・ダンプティは以下のように言う。
「おれがある言葉を使うと、おれが持たせたいと思う意味をぴったり表わすのだ。それ以上でも、以下でもない。」

 「女は子どもを生む機械」などと戦前の軍国大臣でも言わない暴言を吐くには、それ相応の伏線とか背景というモノがある訳で、それが彼の合理主義なのであろう。ただ彼の男尊女卑旧弊観念的機能主義には致命的欠陥がある。
 それは情理というものであり道理というモノである。為政者たる者に最も必要な資質は合理を解することや法理を解することではなく、道理を体現することであり情理を弁えることなのではなかろうか。あの発言が不見識なことは言うまでもない、謝罪すれば済むというモノでもない。なぜなら、あのような発言が飛び出す背景を考えるからである。高みからしか世間を観たことがないから、あのような情理にも道理にも欠けた発言ができるのであろう。

【Japan women called child machines 】
BBC news.bbc.co.uk の見出しである。続けて「Japan's health minister has referred to women as "birth-giving machines" in a speech to a local political meeting. 」
 判ってないのだろうね、グローバリぜーションの凄さも怖さも、そのくせ世界の風潮だからと「ホワイトカラーエグゼンプション」などと米国にも無い概念を持ち込もうとする。
Japan's health minister がwomen as "birth-giving machines"とrefer(言及)するなんて、殆どブラックジョークの世界だということ。


 話は連鎖してゆくので、
「妄想グローバリゼーション」より
mcdonaldizedされたりGooglizedされたりする側は辛いことが多いけど、そこで労働の代替を起こして余剰利潤を創出する方に回りさえすれば、そいつは親の総取りができるってもんだ。

 このような発言は一見して合理的にみえる。しかし、誰もが親の総取り側に廻れる訳でないことは、この発言者が一番理解してるはずであろう。親の総取り側に廻るためには、能力や努力や機会が必要なのであって、いわば「運鈍根+能」が欠かせないということである。彼の発言の本意がGoogle・Adsenseがもたらすモノにあるとしても、単純なグローバリズムや機会均等(平等)主義の陥穽がここには見える。

 話はさらに飛ぶが、いいや水面下では密接につながっているというか同じ文脈に位置する話が、「中国残留孤児の訴えを退けた東京地裁判決」である。法理とか合理からは、あのような判決に至るのかもしれない。でも情理と道理の立場からは、違った判断があるのではなかろうか。
「弱者の最後の拠り所になれるのが裁判所」というのが近代民主主義であるとすれば、判決は法理や合理の上位規範として道理や情理を置くべきではなかろうか。
『判断が分かれるときは国家や大企業など強者の側に立たず、弱者に有利に計るべしと考える。』
だから茫猿は、神戸地裁判決を支持する。

追伸
 この判決は選挙に影響する可能性大だから、安倍総理は流石に慌てたと見えて、急遽善後策を講じるように厚生労働大臣に指示したという。つまり金銭的解決策をということのようだ。彼もまた何も判っていないようだ。提訴の根源は政府が不十分さを認めて謝罪することであり、人間の尊厳性を回復することにある。本人の努力にもかかわらず生活保護を受給せざるを得ない惨めさから脱却することにあるのだということが理解できていない。だからお坊ちゃんと云われるのだ。
by bouen | 2007-02-01 14:51 | 茫猿の吠える日々


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