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桂東雑記

 柏崎刈羽原発は未知の断層帯の上に立地していたという。原発の安全神話が脆くも崩れ去ったのだけれど、ことの次第が国内では電力供給不安という方向で語られ、安全神話の補強がされているようだ。しかし海外では地震国日本と原発立地という観点から原発立地の安全性を正面からとらえられているようだ。我々は「杞憂」などと云うものではなく、「ダモクレスの剣」のもとにあるのだと改めて想わざるを得ない。原発に関しては様々な問題を抱えながら今や進むもならず、退くもならずというあたりが真実なのだろうか。



 そのような憂事のなか、「桂東雑記」Ⅰ~Ⅴを読み耽っている。桂東とは桂離宮の東に住まいするという意味で、昨年秋に96才で亡くなった漢文学者白川静氏の「字源」を中心とした随想録である。甲骨文(亀甲や獣骨に刻まれた文字)や金文(殷周時代につくられた青銅器に刻まれた文字)或いは文身(入れ墨のこと)や漢字の由来など雑記というには難しいところも多いが、智の遊戯とでもいえる書物である。
 例えば、文字の発生について、白川氏はⅠ巻154Pでこう語る。
 中国の古代王朝は夷夏東西の対抗をくりかえしながら、次第に大きな統一体に成長してゆきますが、文字を生み出す神権的な王朝は、そういう古代王朝の最後の段階に成立する、その集成されたかたちです。統一王朝が絶対的で強大な権限をもち、その王が神と交通しながら、神権的な支配を続けるという時代が来なければ、文字は成立しない。文字は神と交通する手段であったからです。

 文字が生まれるとき、エジプトの場合などでも同様でしょうが、文字の形象のなかに神話的な要素がたくさん入っている。中国の場合でも、そういう神話の体系というものが、文字成立の上での大きな背景となるのです。

「桂東雑記」Ⅰ (カバーの図版は「望」の金文である。)
「桂東雑記」Ⅴ (カバーの図版は「命」の金文である。)

白川静氏について、松岡正剛氏はかく語る。
松岡正剛の千夜千冊『漢字の世界』

極東ブログでは対極的に「白川静は「と」だと思う」と云う。

・・・・・・さて、閑話休題・・・・・

 某月某日、某処にて、会議の後、杯を交わしながら。
茫猿の話が長過ぎる、クド過ぎると、某氏に叱られた。
叱られてから省みて想えば、年々堪え性が薄くなっていると自覚するのである。そのもとは何かと云うことも考えない訳でもありませんが、多くは加齢故の愚かさなり愚かさ也と、日々三省するに如かずということなのだろうと想っています。
 しかし、言い訳じみた話になるが、茫猿の長話に異論や反論が殆ど無いことも些か気になることです。情報を開示し、意見を主張し他者の批判にさらされ議論を深めてゆくところから、新しい展開もより良き解決策も見出せるのだと考えます。異論を述べあおうとしない、時には異論を冷然と無視する。そのような世界には進歩も発展もなく息詰まる停滞しか無いのではなかろうかと懸念します。退嬰といえるほどに変化を嫌う風潮や自己の殻に閉じ籠もる気配を懸念するのです。

 議することが以前よりも不得手になっているように感じられる。議する経験の乏しさが背景にあるのではなかろうか、学生の頃に青年の頃に口角泡を飛ばすような議論をした経験や、世慣れた大人達に書生論だと貶されながらも正面から反論した経験などが乏しいのではと思える。だから、議論が不得手であり、当然のことながら司会や議論の整理も不得手なのでなかろうか。
by bouen | 2007-07-21 05:16 | 只管打座の日々


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