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株価経営の欺瞞

  昨日今日のニュースでは、株価の下落で日本の国富が大幅に消滅したと騒いでいる。年初の株価に比較して昨日今日の株価は半値に下落したから、国富が半減したという論理であるが、怪しい論理ではないのか。 株価が経済の重要な指標の一つであることに異論はないが、株価だけが経済指標なのであろうか。



 企業のステークホルダー(企業の利害関係者)は利害関係の発生する取引先や株主や経営者が意識されがちであるが、従業員も重要な関係者であり、企業の社会的存在という観点からは地域住民並びに地域社会も含まれて当然であろう。 そういった意味で、社会的存在である企業の価値を株価のみで評価してよいのであろうか。 株価のみと言う表現が当を得ていないと云うのであれば、株価を過大視してよかろうかと言い換える。

 デイトレーダーに代表されるゲーム化した市場が示す株価の乱高下に振り回されるのが正しいかと云うのである。 株式市場だけではない、その種の株価を背景にした過大と云う表現では表現しきれない、莫大なレバレッジ効果を織り込んだ金融市場は正当と云えるものであろうか。 ネオリベラリズム主義者から云わせれば、何の寝言を言っているのかということであろうが、実体経済を全く乖離しゲーム化したというよりはゲーム理論を駆使する市場が示す指標に振り回されていてよいのだろうかと云うのである。 サブプライム融資の危険性が幾重にも証券化されることにより、その実態が見えなくなってしまったように、バーチャルなネットマネーが踊り回る(仮想)市場にリアル(実体)市場がこれ以上振り回されていてよいのであろうかと考えるのである。 いわば、異常に肥大化した尻尾が胴体を振り回す愚かさなのである。

 投資と投機の違い、相場と実相の落差、バーチャルゲームとリアルマーケットの乖離といったものを改めて考え直す時期であろうと思えるのである。 このように言えば、債権・債務の証券化、証券の証券化は世界の趨勢であり、まさに何の寝言を言っているのかと言われようが、実態のしれないというよりは、実態のない、剥いてもむいても芯の出こないキャベツを無限に剥いているようなゲーム市場に振り回される愚かさに気づく時であろうし、そのような市場を制御する方法を考える時期であろうと云うのである。 金が金を生む市場は、ひとたびトレンドが変われば、金が金をはぎ取る市場なのだと気づくべきであろうし、リスクの存在しない市場は無いのだし、ハイリターンはハイリスクなのだと改めて気づくべきであろう。

 地価バブルの当時に不動産投資を行わない経営者は愚か者視されたが、新自由主義者に云わせればファンド経済に背を向ける経営者は愚か者と言ってきたわけであり、その実相を幾重にも隠したレバレッジファンド経済が潜めているリスクが現れてしまったという訳であろう。 これを二十一世紀の病巣というのであれば、それは社会の隅々に今や蔓延しているわけだし、蔓延を許してしまったわけであろう。
 蔓延を許した直接の責任が、我々庶民に有るわけではないが、農協や信用金庫や地方銀行にそのような経営、つまり投資リスクを取ることを認めないで、一見してリスクが低くく見えるものの実は巧妙に隠されているに過ぎない証券化商品への投資(投機)を促した責任の一端は社会にあったのだと言わざるを得ない。

 過日、地価バブル破綻後の日本の不良債権処理策について、このように引用した。
世に倦む日々」は、日本の不良債権処理は国民の10年間の犠牲で不良債権を銀行帳簿から消したのだと言っています。
 いわく、(1)銀行の貸し渋りと貸し剥がしによる中小企業の身代わり倒産。 (2)超低金利からゼロ金利を耐えさせられた、庶民の所得の銀行移転。 (3)大手銀行に与えられた免税特権(そのことが国家の財政赤字を拡大させ、庶民の医療や介護などの社会福祉を低下させた。)
 十年以上のゼロ金利継続による所得移転総額は、計算方法により様々な額が云われますが、膨大なものであることは間違いのないところであり、不良債権処理に対する公的資金投入効果などは一時のカンフル注射であり、真実はゼロ金利継続による所得移転という方法によるところの、国民1人ひとりがその処理を分担負担したのであるということです。


 二十世紀末に実需のない地価相場と余剰資金が日本経済に地価バブルを引き起こしたように、今またレバレッジに過大包装されたバーチャルファンドがゲーム思想に取り憑かれて世界を混沌に導いたと云えるのであろうし、その危険性を指摘する数少ない識者を無視した結果なのであろうと見れば、もって瞑すべしということであろう。 ひたいに汗することを忘れ過剰なマネーゲーム依存思考に浸ってしまった、日米欧大衆迎合政治の行き着いた結果なのだと云えるのであろう。

 マネーゲームの勝者を礼賛することは、競輪競馬の勝者をもて囃すことと大差ないのであろうが、なお悪いのはバクチには胴元の存在が常に意識されるし見えているのだが、マネーゲームにも存在する胴元という存在が見えていないことであり、意識されていないことである。 マネーゲームの胴元とはいち早く一攫千金の経営報酬を手にして、市場から撤退してしまった人たちのことである。 現代の錬金術師であり巧妙な詐欺師の存在なのである。 このように実相を読んでくると、レバレッジファンド経済とは無限ネズミ講になんとよく似ていることであろうかと思える。 無限のレバレッジ・キャッチボールなどあり得ないのであって、それはバベルの塔であり、砂上の楼閣・蜃気楼なのだと云えるのだ。

 小泉改革:郵政民営化の本質は、「郵貯と簡保を民営化することにより、両者の資金を日本国債への投資から海外ファンドへの投資へ振り向けることにある。」と云われてきた。 よりハイリターンが期待される分野への有効な投資が民営化により実現するという訳である。 民営化がもう少し早く進んでいたら、日本の庶民金融資産は大火傷を負っていたことであろう。 どん欲にファンド資金を求めるネオリベラリズム&ネオコンサバ主義者達が郵政民営化を求めたというのは今や明白になりつつある。 郵貯資金や簡保資金が紙屑になる前に、レバレッジファンドが破綻したと云うことは日本の庶民にとっては不幸中の幸いなのかもしれない。
by bouen | 2008-10-12 12:49 | 茫猿の吠える日々


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